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兵庫・岡山テレホン法話集

迷うとは

教区名兵庫教区
組名 赤穂北組
寺号 浄光寺
話し手 布埜裕之
法話を聞く

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法話

「迷い」とは仏教でいう煩悩のことです。 煩悩というと難しく聞こえるので、この「迷い」を「道に迷ったとき」に例えてお話いたします。

みなさんは道に迷ったことが一度や二度あることかと思います。私も土地勘の薄い所などで何度か道に迷った経験があります。知らない初めての土地で道に迷ったとき、どうしたらよいのかわからなくなり不安な気持ちになった事を覚えています。 そもそも道に迷うとはどういう事でしょうか?
私の妻は車で出かける時、あまり行き先や目的をはっきり決めず行くタイプです。ドライブに行くと目的もなく行き当たりばったりなので、運転している私は結局疲れはてて帰ってくるというパターンが多くありました。これがいわゆる「放浪」というのでしょう。行き先がわからないというのが迷うという事のひとつです。

次に2つ目は行き方がわからないという迷いです。まさに地図を持たずに出かけて困り果てている状態のことでしょう。 中学生の頃、私は夏休みになると大阪の親戚のおばさんの所へよく泊まりに行っていました。駅を降りるとたくさんのバスターミナルがあり、私はこの番号だと思うバスに乗りました。しばらくバスに乗っているといつもと違う景色だという事にふと気づきました。そうです、違う番号のバスに乗っていたのです。私はすぐバスを降り、近くの公衆電話を見つけ親戚のおばさんに急いで電話をしました。おばさんは一番に「で、今どこにいる?」と私に聞きました。しかし周りを見渡しても知らない場所で今自分がどこにいるかもわかりません。私は不安で涙が出そうでした。

3つ目、これは自分の姿が見えていない、今いる場所がわからないという迷いです。
そして4つ目は、私が「この番号のバス」と思っていたバスが違うバスだったという「わかっているつもり」というやっかいな迷いです。自分はわかっているつもりなので他人の言うことが耳に入ってこないのです。

阿弥陀様は、私のいのちの行き先を「お浄土」とお示しくださり、その行き方を「お念仏」と選んでくださいました。そして今どこにいるかもわからない私のところに南無阿弥陀仏のお念仏となり届いてくださっていた仏さまでした。努力して私のもとに近づけたら救おうという仏様ではありませんでした。わかっているつもりで、仏様の呼び声の届かない私に「南無」という信じることまで用意してくださっていた阿弥陀様でした。煩悩という迷いの世にいる私ですが、阿弥陀様と一緒なら「安心して迷える世界」を生きていけるのです。
阿弥陀様のお徳を讃え感謝するお念仏を、今ご一緒に唱えさせていただきましょう。

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