2019/11/01fri
その他
お釈迦さま
「布施」のこころ{「HYOGO教区新報」2017年1月197号}
最近、電車の優先座席を「譲れ」「譲らない」で口論をする老人と若者のやりとりの様子がネット上に流され、その是非をめぐって物議を醸したことがあった。
それは、老人が優先座席に座っていた若者に対して、「座席を譲れ、(優先座席であるという)日本語がわからないのか」と高圧的な態度で接したことに若者が腹を立て、「そういう人に譲りたくないわ、残念だったな」と言い放ったものであった。そんなやりとりが何度も繰り返され、さらにこの若者はツイートに、次のようにつぶやく。
「私は優先席を譲りません!! なぜなら先日、今にも死にそうな老人に席を譲ろうとしてどうぞと言ったら、〈私はまだ若い〉と言われ、親切な行為をした私がバカを見たからです。今後とも老人には絶対に譲りません」と。
この老人と若者の双方の態度の是非については、動画を見た方々それぞれの意見に分かれると思うが、私が少し引っかかったのは、若者の「親切な行為をした私がバカを見た」という言葉であった。
つまり「優先座席を譲る行為」は、私が他者にしてあげる親切な行為だと見ている、私が相手に「してやる、してやった」という思いがのぞき見えることであった。
他者のために何かを「してやる、してやった」と思うとき、たとえ無意識であっても少なからず相手に何らかの報酬を求める心が生じるようである。
先の例でいえば、座席を譲って礼を言われなかったら、私も少なからずムッとするに違いない。感謝や賞賛などの見返りを期待しているからだ。
さて、「見返りを求めず、他者に何かを施す」行為を、仏教では布施行という。釈尊は、欲望から生じるさまざまな執着(こだわりの心)が人生の苦しみの原因であり、この執着を捨て去ることが安らぎへの道であると説く。他者に何かを施すとき、見返りを求めないということは、施したということに対する執着を捨て去ることを意味する。つまり布施行は、それをなす者の心の中から見返りへの期待(執着)という心の垢を削り落としてくれるのだ。
だから、冒頭の「座席を譲る」という行為が「してやる」のではなく「させていただく」という思いの中でなされるならば、もっと穏やかで心豊かな人間関係の中で過ごせる世の中になるのではないか、と思う。
ある時は、
若者「どうぞお座りください」
老人「いや、私はまだ若いから、結構です」
若者「そうですか
(…お元気な方なのだなぁ、よかった)」
老人「(…心遣いをありがとう)」
またある時は、
若者「どうぞお座りください」
老人「ご親切をありがとうございます」(着席)
若者「(…座ってくださってありがとう)」
この相手を思う「(ありがとう)」
という心の声が大切なのだ。
先日の出来事、西院から京都駅まで市バスで移動した時のことである。四条大宮で座席が空き、さあ座ろうと腰をおろしかけたとき、お爺さんがヒョコッと乗車してきた。思わず腰を浮かせて前の方に移動したが、結局そのあと20分間、立ったままで京都駅に到着した。降車時にバスの運転手さんが一言。
「先ほどはありがとうございました。」
最初は何のことだかわからなかったが、気がついたその瞬間、ホッと心が温かくなった。
◆著者紹介
岩谷教授(いわたに さずく)
揖龍西組西法寺
1960年生まれ。
元浄土真宗教学伝道研究センター常任研究員(聖典編纂担当)。龍谷大学文学部非常勤講師。相生市文化財審議委員。
研究テーマ「播磨地域の真宗史」目下の関心事「真宗寺院に遺る法宝物を如何に後世に伝えるか。一番はお念仏!」。 モットー「笑えるように生きたらええがな!」
岩谷教授(いわたに さずく)
揖龍西組西法寺