2021/03/20sat
その他
お釈迦さま
悟りの智慧を味わう{6回連続:第5回}
「愛語」の実践{「HYOGO教区新報」2017年11月200号}
この原稿を書いている最中、いよいよ国政選挙の公示日を迎えようとしている。大義なき解散と言われる中で、これから各党の党首、候補者たちの激しい舌戦が繰り広げられることになろう。その際、党是を論ずるよりはむしろ、如何に相手の非と思われるところをあげつらい、罵詈雑言を浴びせるかに熱が入る口調には、毎度のことながらウンザリとしてしまう。
この有様では、とても明るい未来、心豊かな社会の創造を託する気持ちにはなれない。相手を中傷する言葉は、とうてい周りには響かず、結局のところ自分自身をおとしめることになるのだろう。
「人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである」(スッタニパータ657)と、釈尊はおっしゃる。「斧」とは、つまり「舌」のことで、この舌でたびたび他人の悪口、陰口あるいは愚痴、文句を言う。それは、その人を傷つけるだけでなく、実は同時に自分自身を傷つけることになるのだと諭されるのである。
月参りにスクーターで街中を走っていると、ときどき二、三人が集まって立ち話をしている光景に出会うことがある。小一時間ほどして、ふたたびその場所を通ると、まだおしゃべりが続いている。「よくあれだけしゃべることがあるのものだな」と、あきれながら通り過ぎる。聞くと、たいていが他人の噂話で、およそ褒める話は出ず、やがては悪口、陰口へと展開していく。それでもその後ひとりになると、「なんであんな事を言ってしまったのだろうか」と後悔の念が湧いてくる(とは、本人の弁)。
私も同居の母とよく口論になることがある。そのきっかけは、ホントに口に出すのも恥ずかしい些細なことである。それでも最後は、声の大きい方の勝ちとばかり、私が怒鳴り声をあげて終了。しかしその後はやはり後悔しきりで、「ああ、また年寄りに言うたらイカンことを言うてしもうた」と、自己嫌悪に陥るのが毎度のことである。
釈尊はまた、次のようにおっしゃる。「自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのである」(スッタニパータ451)と。他人を謗り傷つけ、自分が後味が悪くなるような言葉は、心して言わないようにと、釈尊はお諭しくださるのだ。真実に「ことば」はその使い方が大切なのである。言葉一つで、他人の心を悲しませたり癒したり、自らも傷つき泣いたり笑ったり。
「ひとつのことば」(作者未詳)という詩がある。
ひとつのことばでけんかして/ひとつのことばでなかなおり/ひとつのことばで頭が下がり/ひとつのことばで心が痛む/ひとつのことばで楽しく笑い/ひとつのことばで泣かされる/ひとつのことばはそれぞれに/ひとつの心を持っている/きれいなことばはきれいな心/やさしいことばはやさしい心/ひとつのことばを大切に/ひとつのことばを美しく
この「ひとつのことばを美しく」とは、仏教でいうところの「愛語」の実践ということであろう。
「あなたがいるから、私がある」と気づかされ、相手を思う心から自ずと出る慈愛に満ちた言葉で、優しく語りかけることができれば、人生はかならず自他ともに心豊かなものになるはずである。
◆著者紹介
岩谷教授(いわたに さずく)
揖龍西組西法寺
1960年生まれ。
元浄土真宗教学伝道研究センター常任研究員(聖典編纂担当)。龍谷大学文学部非常勤講師。相生市文化財審議委員。
研究テーマ「播磨地域の真宗史」目下の関心事「真宗寺院に遺る法宝物を如何に後世に伝えるか。一番はお念仏!」。 モットー「笑えるように生きたらええがな!」