2021/03/27sat

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お釈迦さま

悟りの智慧を味わう{6回連続:第6回}

悟りの智慧を味わう{6回連続:第6回}

 

煩悩の矢{「HYOGO教区新報」2018年2月201号}

 

 

 光陰矢のごとし。昨年2017年もあっという間に過ぎ去った。歳を重ねる毎に一年という時間を弾指のごとく感じるのは私だけではあるまい。

 大晦日に撞く除夜の鐘は、人間のもつ百八の煩悩を一つひとつ追い払うためだというが、この私はといえば、鐘を撞きながら、この後の修正会ではどんな有り難い話をしてやろうかとか、新年の祝い酒はさぞかし美味かろうとか、煩悩を消し去るどころか、打ち鳴らすたびに名利・貪欲の煩悩の数が倍増しているようである。情けないことだ。

       象形文字『煩悩』

 

 

 釈尊は、我々の生きる姿を観想し、そのお悟りの中で四つの真理(四諦)を明らかに示してくださった。曰く、この世の中は苦しみに満ちている(苦諦)。この苦しみの原因は煩悩であり(集諦)、煩悩を消し去ると苦しみは消滅する(滅諦)。この煩悩を消し去るために八つの正しい道がある(道諦)、と。すなわち、世の中の有様を正しく見て知ること(正見)、その知見にもとづく正しい思考(正思惟)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい思念(正念)、正しい禅定(正定)である。このうち正見が根本で、これは、世の中は自分の思いとはウラハラに常に移り変わり(諸行無常)、永遠に変わらず存在するものなど無く(諸法無我)、すべては刹那刹那の因縁によって起こっている(因縁生起)というもののあり方に目覚めることである。

 そして、「煩悩の矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する」(スッタニパータ593)と示される。

 若い頃は、なるほど頭では理解できるが毎日の生活の中での実践となると難しいなと思っていた。しかしその私も、この歳になって、世の中のもののあり方の真実を、何度も何度も観察するにつれて、心のあり方も変わってきたように思う。

 

 

 

 

 

 

親鸞聖人は、『正像末和讃』「愚禿悲歎述懐讃」に、ご自身の姿を示して、こうおっしゃった。

 

 浄土真宗に帰すれども

 真実の心はありがたし

 虚仮不実のわが身にて

 清浄の心もさらになし

 

 つまり、浄土真宗に帰依してはいるが、この私には真実の心などありそうもない。うそいつわりばかりのわが身であるので、清らかな心も持ち合わせてはいない、と。

 最晩年の聖人にしてこの心境はどうなのか、と思っていたのだが、先輩方のお示しで、なるほどと気づかせていただいた。すなわち、これは阿弥陀如来の智慧の光明に照らされてはじめて気づかされる自身の姿である、と。浄土真宗に帰すればこそ、はじめて自覚できた自身の姿であった。煩悩の矢を抜き去ることは困難であるが、煩悩の身と知ることが大切なのだ。だからこそ凡夫の私にも、少しでも如来様に恥ずかしくない生き方をしようという思いが生まれてくるのではないか。

 

 前門様は、先の750大遠忌法要御満座の御消息の中で、次のようにご教示なされた。「凡夫の身でなすことは不十分不完全であると自覚しつつ、それでも『世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ』と、精一杯努力させていただきましょう」と。

 この『○○』の中に、それぞれが念仏者としての社会実践を挿入して、日々精進して参りたいと思うのである。

 

 長期にわたりご聴聞ありがとうございました。

 

◆著者紹介

岩谷教授(いわたに さずく)

揖龍西組西法寺

1960年生まれ。

元浄土真宗教学伝道研究センター常任研究員(聖典編纂担当)。龍谷大学文学部非常勤講師。相生市文化財審議委員。

 

研究テーマ「播磨地域の真宗史」目下の関心事「真宗寺院に遺る法宝物を如何に後世に伝えるか。一番はお念仏!」。 モットー「笑えるように生きたらええがな!」