2019/11/01fri

その他

お釈迦さま

悟りの智慧を味わう{6回連続:第1回}

言葉は知っていても、その意味となると、とても味わい深い仏教の「ことば」。そんな仏教用語の味わいを、岩谷教授さんに『悟りの智慧を味わう』と題し浄土真宗本願寺派「HYOGO教区新報」201610196号~20182201号に連載させていただいたものです。(全六回)

 

「執着」ということ{「HYOGO教区新報」2016年10月196号}

 

頭を丸坊主に剃りはじめて5年になる。現在55歳。五十路を迎え、頭頂部がめだって薄くなりはじめた。それまでいろんな育毛剤を試してきたが、さほど効果はなかった。どうしようか。「ええい、この際いさぎよく剃ってしまおう」と考えたのがきっかけであった、と思う。

いらい3年間、3日に一度のペースで剃っている。当初はよく頭から血を流したが、今ではそのようなヘマをやることは無くなった。風呂の中で目をつむったまま、左手の指先で剃り残しを探しながら、右手に持った三枚刃をたくみに走らせる。その時ふと頭に思い浮かぶのが、「執着」という二文字である。

 

  象形文字 『執着』

 

釈尊は、「人生は苦しみに満ちている」と見通し、その苦悩の原因は様々なことに執着するこころであると説いた。

たとえば『無量寿経』には有田(うでん)()(でん)有宅(うたく)憂宅(うたく)と説かれる。「田があれば田のことが気になり、家があれば家のことが心配の種となる」ということで、土地や財産を持つとそれらが気になり、それらに縛られてしまう、ということ。

全く「執着」ということは「苦」の因となる。この苦悩から解放される道は、様々なことに執着するこころを離れなければならない、と。

さしずめ、この場合の私の苦とは、「髪の毛も薄くなってきて、いよいよ老いが近づいた」という自覚(老苦)であり、その原因は、「そうであっても、まだまだ若くありたい」という若さに対する執着(こだわり)であったか。 

そんなことを思いつつ、目をつむって「一昨日の無い物ねだりも、昨日の怒り腹立ちも、今日の自分の愚かさも、こだわり、かたより、とらわれたこころだったな」と振り返りながら、執着という髪の毛を剃っているのである。

そもそも僧侶が髪の毛を剃ったのは、様々なことがらに対する執着を離れるためであったという、が…。

           

先日の夕方、たまたまテレビをつけたらNHKで「毛髪再生医療、臨床実験開始!」というニュースをやっているのを見てしまった。

そういえば数年前ネズミの背中に人毛が生えている映像を見た記憶があった。細かいことはよくわからないが、「自分の毛根鞘細胞を培養して、薄くなった箇所に注入すれば髪が元通りに生えてくる」ということらしい。「実用化は早ければ2018年」とのこと。

 

ああ、また「執着」が頭をもたげてきた。悟りの道はまだまだ遠い。

 

◆著者紹介

岩谷 教授(いわたに さずく)

揖龍西組西法寺

1960年生まれ。

元浄土真宗教学伝道研究センター常任研究員(聖典編纂担当)。龍谷大学文学部非常勤講師。相生市文化財審議委員。

 

研究テーマ「播磨地域の真宗史」目下の関心事「真宗寺院に遺る法宝物を如何に後世に伝えるか。一番はお念仏!」。 モットー「笑えるように生きたらええがな!」