2019/11/05tue

用語集

浄土真宗

「報恩講」って俳句の季語なんです。

弥陀の名号となへつつ   信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり

浄土和讃(浄土真宗聖典注釈版:555頁)

 寺の生まれ寺育ちではなかった私は幼少の頃「親鸞さま」「蓮如さま」「ほんこさん」と、全て同じように「ほんこさん」も人の名前だと思っていました。今となっては大変お恥ずかしいことですが・・・。


 報恩講は、親鸞聖人の曾孫であり、現在の本願寺の礎を造られた第三代覚如上人から始められた親鸞聖人のご法事を称した法要で、私たちは親しみを込めて「ほんこさん」と呼んでいます。


 以前、従弟叔父から「報恩講」・「親鸞忌」・「御正忌」・「お七夜」・「引上会」は俳句の季語だということを教えてもらいました。

御正忌報恩講:西本願寺


 これら全てが俳句の季語となるほどに世間に浸透し、認知されている言葉であったのだと驚いた記憶があります。
「親鸞忌」・「御正忌」は親鸞聖人のご命日をさしたものです。「お七夜」は旧暦の11月28日(西本願寺では新暦の1月16日)を縁として、7日間行われる法要のことをさしています。また、「引上会(お取り越し)」は本山で行われる報恩講の前に、前もって各地で行われる報恩講のことをさします。


私たちが生きている今に、これらの言葉が俳句の季語となるほどに世間に浸透し認知されているでしょうか。


                                     
仏事ごとにまつわる私の経験を少しお話させていただきますと・・・


 それまで毎日母が供えていたお仏飯を私が中学生になったのを機に、私が供えることなりました。まだ仏縁に遇っていなかった当時食べ盛りの私は「これがなければ、すぐに食べられるのに・・・。」と給仕するのを億劫がったものでした。
 また、食事の際に言う「いただきます」も、この言葉は大切な言葉であると思いながらも一体どこに向かって発しているのか深く考えたり気づこうとはしていませんでした。
 念仏者である祖父はよく「生かされて生きている。」「人間はお魚やお野菜など、いのちあるもののいのちをいただかないと、いのちを繋ぐことができない。」「(すみません。あなたの尊いいのちをいただいて、生きさせて)いただきますと言うのだ。」ということを教えてくれていたのに、当時の私は深く受け止めず真意に気づくこともできずにいました。
 仏縁に遇った時、「仏さまにお仏飯を供えること」も「いただきます」という言葉も単なる動作や言葉ではなく、すべて尊い意味があったのだと気づくことができました。ともに自分が生かされていることへの感謝を示したことだったのです。


しかし、このことに私一人で気づき得たでしょうか。


 それらについて私に伝える人がいなければその真意に出遇うことはできませんでした。様々なご縁によってものごとの真意を味わえたのです。そしてそのことを味わえた時、そのことについて大切に思う心がおき、自然と受け止めていくことが出来たのです。


昨今、社会状況は一変し、家族の形が変わり、こうして伝えていくことが困難な時代になっています。
                                     
 報恩講は“南無阿弥陀仏”を私たちに伝えて下さった親鸞さまを讃える法要です。先の出来事と同様に、南無阿弥陀仏をよろこばれた多くの先人達が、この教えを伝えて下さった親鸞さまのご苦労をご命日を縁に味わいたいと各地で勤まり続けて下さったおかげで、広く浸透し今日まで続いています。


私に伝わってきた“南無阿弥陀仏”という言葉とは何か・・・。


それは「阿弥陀さまという仏さまが、大丈夫、必ず救う。まかせよ。あなたとともに生き、必ず浄土に生まれさせ仏にする」と喚びかけ下さっている喚び声(御名)そのものなのです。
その喚び声に出遇われた多くの先人達が、親鸞さまを讃え、他力念仏のお法をよこばれることになったのです。
先にも申し上げましたが、社会状況は一変し、家族の形が変わった中で、先人が大切にしてきたことを伝えていくことが困難な時代になりました。
伝わってきたことをよろこびつつ、次世代へ伝わるようにするために、まず共々に報恩講に参らせていただいて、私たち自身がしっかりと味わせていただくことが大事なのではないでしょうか。
今年も教区内寺院で報恩講が勤まります。是非ともお参りさせて頂きましょう。

◆著者紹介

浄土真宗本願寺派

揖龍東組善導寺住職

天野真隆(あまの しんりゅう)